「夢のまた夢」

黒部の仙人(高橋重夫)


正月は冥土の旅の一里塚
  目出度くもあり目出度くもなし

 いつの間にか六十歳を過ぎた。今年で六十二回目の誕生日を迎えるのだが、その実感は無い。

 株の世界では、「もうはまだなり、まだはもうなり」という金言がある。
それを引用すればもう六十なのかと思っている時はまだ充分現役で仕事が勤められそうなのだ。が、まだまだ現役で仕事ができる、と本人が思っていても世間の人は、あの人はもう峠を越えた人だ、と思っているのかも知れない。
十代の頃は早く二十歳になって大人になりたいと思っていた。タバコも隠れたりしないで堂々と吸える、酒も自由に胸を張って飲める、成人映画も見たいだけ見れる、と思っていたのだ。それが三十代、四十代、五十代が過ぎて六十代になると誕生日が来ても嬉しくもないし感激もない。むしろ、また冥土に旅立つ日が近くなってしまった、と思うことの方が多いのだ。
 残された人生の日々が少なくなってしまった六十代だけれど、子供たちが独立してしまえば金銭的な負担が無くなるので気楽ではあるね。中国の諺には、六十代の人間が一番幸せなのだ、とある。確かに仕事をこなす体力もそこそこにはあるし、その気になれば浮気だってできるかも知れない。ただし、髪の毛が薄くなってしまったのがなんとも残念なことではあるが、、、、、、。
幸せな六十代だけれど、若い頃と違って冬の寒さが辛い。身体にこたえるのだ。とくに膝の関節と肘。寒い日の登山道の下りは神経を使うね。膝に熱がたまってきたらスピードダウンしなければならない。労わりながら歩いていないと膝がストライキを起す。二、三日は仕事に差し支えるのだ。肘も酷使すると痛み出す。顔を洗う動作が困難になるほど痛む。とにかく無理が禁物なのだ。

 建設現場の配管工として四十七年間働いた。今は黒部の谷で仙人と名乗っている。山小屋で暮らすことは楽しいし、気分もいい。けれど三ヶ月間の営業期間では女房と一年間食えるほどの売り上げは無い。建設現場の職人はほとんどが零細な組織で働いている。厚生年金は望むべくも無く、国民年金ですら加入できない人も多い。いわゆる、下層階級を形成している人たちなのだ。 六十五歳になれば国民年金が支給される。女房と二人分を合わせればなんとか飯だけは食えそうだ。十二万円程度の年金収入だけでは、好きな酒も相当数量と質を落とさなければなるまい。
携帯電話、衛星電話、固定電話、テレビの受信料を合計すると二万円。冠婚葬祭の費用も家計を圧迫する大きな要素である。であるから、余分な出費はすべて削る。今年から新聞の配達をお断りした。
 一年の計は元旦にあり、と言われている。四年後、五年後を見据えて、今から節約生活に慣れなければならない。何かを変える時には徐々にする必要がある。いきなり新しい生活を始めようとしてもうまくはいかない。いきなりしなければならないのは禁煙だ。タバコを断つためには、思いたったその日から実行する。徐じょにでは必ず失敗する。決心をしたら絶対に成し遂げる強い意思が求められる。 強い意志と確かな信念は、何かを成し遂げる時には必ず要求される。

 若い頃から思い描いていた夢。そして死ぬまで見続けるであろう夢。それを実現するために維持する日々の努力をおこたらなければ夢は花開く時が来る。二十年、三十年温めていた夢ならば周囲は理解してくれるはずだ。とくに家族の了解は大切である。自分の夢と引き換えに家庭を崩壊させてはいけないのだ。
 一富士二鷹三なすびとは正月に見る縁起のいい初夢のことだ。雪で飾られた富士山の中腹を鷹がなすびをくわえて飛翔している夢を見たならば、宝くじが当たりそうだけれどそれは無いだろうな。
女房は毎年宝くじを買っているが、当たったことは無い。宝くじが当たったらパートなんか辞めてやる、と息巻いている。女房も六十を越えて肩が凝る、腰が痛い、と愚痴が多くなりました。 登山や岩魚釣りにのめりこんでいる人は、いつか街ではなく自然のなかで暮らしたい、と思うようである。そして、それを夢として心の奥底で温めるようになる。鳥たちが雛に孵そうとしてひたすら卵を温めるように。岩魚釣りに人生のすべてを捧げてしまった男もいる。
儲かりもしない山小屋で黙々と暮らしている男もいる。世間は変わり者としか思わないが、本人はいたって幸せなのかも知れない。 夢を実現することとは、宝くじに当たることに等しいほど確率の低いことのようである。
小さな夢。人が聞いたら笑ってしまうような夢もある。
義母は大正の生まれだった。生粋の埼玉県人なので、晩年まで海を見たことがなかった。義母の生家は田も畑も持たない家だったので、その日、その日がやっと食えるだけの貧乏暮らしだった。なので、小学校も二年生までしか通わせてもらえず、子守りとしてわずかな手間を稼ぐために働いたのだった。
恥ずかしい話なのだが、義母は文字が読めなかったし、足し算引き算もおぼろであった。だからいつも控えめでつつましい生活をしていた。
そんな義母が冥土に旅立つ二年前に、「重夫、あたしは海を見たことがない、海を見に連れて行っておくれでないか」と言った。
慾も得も無い義母のささやかな夢は、海を見ることだったのだ。
たやすいことだ。女房と三人で東京湾に出かけた。義母はなんの変哲もない湾のさざ波を見て、これが海、と言ってしばらく眺め続けていた。
昼食にちょっと高級な魚料理をおごったのだが、あまり箸が進まなかった。義母は海を見たことでもう満足してしまったのかも知れない。 小さな夢で生涯を終える人もいれば、そうでない人もいる。

 露と落ち露と消えぬるわが身かな
  難波のことは夢のまた夢

下層階級の貧家に生まれて、その不断の努力と旺盛な生活力で天下人の地位まで駆け上った太閤秀吉の辞世が、夢のまた夢であった。癇癪もちで気難しい信長の下で出世をして、命を永らえることの困難さは、光秀の例を持ち出さなくても明らかである。秀吉の世渡りの巧みさが、信長の冷酷な視線から逃れ得た要素だったのだろう。秀吉はその場の空気を読む天才だったのだ。 そんな彼だったが、自身の欲には制約を課すことが上手くなかったようである。世の中にただ一人だけ、という地位にも飽き足らず、朝鮮から明国まで切り従えるのだ、と途方もない夢を見た時に彼の人生は転落の道を歩き出したのだった。
島国である日本のトップで満足できなかった男の悲しい性を、世間に周知させた男は秀吉だけではない。権力者の末期の哀れさは歴史がいくらでも教えてくれる。 夢は死ぬまで持ち続けなければならない。夢のない人間は魅力に乏しい人間である。夢こそが明日の活力であり、今日を生きる源である。なのだが、六十を過ぎてどんな夢を見たらいいのだろうか。手っ取り早いのはつまるところ、宝くじに当たることなのかね。
 そう言えば女房がぽつりとつぶやいていた。お父さん、娘が妊娠したらしいのよ、と。爺、婆としてお金がかかるわよ。と。 これは大変だ。娘は三十五歳。決して若くはない。むしろ高齢出産なので余分な心配をしなければならない。
女房はつわりの時の献立を考えたり、妊娠五ヶ月になったら腹帯をしたり、生まれる前から、胎教として英語を聞かせなければ、ショパンも聞かせなければ、とまるで自分が産むような騒ぎである。その点爺は気楽である。自分が造ったのではなく、婿殿が造ったのだからすべて婿さん任せでいい。
 孫は諦めていた。仕事場で仲間が孫の自慢話を始めだすと、黙って相づちをうつだけだった。そりゃあ、子供はかわいいよ、孫となればなおさらだろうけれど、目の中に入れられるほどのものかね、と内心は思っていた。
仲間はまるで孫が自分の人生のすべてのように話すのだ。と言うことは孫ができなければ何も無い人生ということの裏返しではないのだろうか。
人の一生はそんなに長くない。六十歳になるとそれが身にしみてくる。だからこそ、毎日が貴重なのだ。この貴重な日々を大切にいきるために、元旦に一年の計画を思い描くことも、決して小さな夢ではなかろうよ、ね、ご同輩。
なにはともあれ、皆様方の新年が楽しくなるように、仙人温泉小屋のスタッフ一同願ってやみません。
今年もよろしくお願いいたします。


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