山から下りたときに考えること その1

「飢餓と飽食」

田中 正祐紀

人生は、経験と思い出で構成されていると思うようになった。
一度しかないこの世の生を考えると、特に経験は、その両極端を味わうことで、 人生に深みを与えるようである。
よく「普通が一番」とか、「中庸を行く」などと言うが、両極端を経験しない者が、 ほどほどを分かる筈はないし、いつも似たような生活の繰り返しが、時には退屈と思えて耐えられない性分のような気もする。 そんな訳で、毎日食べている食事の両極端である「飢餓と飽食」について考えてみたい。

 腹いっぱい食べる「飽食」は、現代では簡単に経験できる。飽食の時代である。
巷にはバイキング、食べ放題の店や宿があふれ、旅行の広告も、食べ放題がセットになっているものが多い。
回転寿司でも皿の高さを競って、鮨を腹に詰め込んだりしている。 また、完食して正解するまで帰れないというテレビ番組があり、大食いタレントが注目されたりする。 そして、スーパーやコンビニには売り切れないほどの食物や菓子が並ぶ。
 私は3人兄弟で育ち、欲が張っているから、好きなものを好きなだけ食べてもいいという状況になると、気持ちがハヤる。 食べるピッチも上がり、ベルトを緩めて、もうこれ以上食べられなくなるまで食べてしまう。 そして、重い胃を意識して、あまり動けず、次の飯が食べられなくなり、翌日も食欲がなくなる。 毎回、なんであんなに食べたのかと後悔している。
翌日の食事がない状況なら、あのとき腹一杯食べていて良かったと思えるのだろうが、 そんなことはないので、飽食は満足でなく後悔であるというのが経験から得られたことである。
 一方、「飢餓」を経験することは難しい。餓死した人がいない時代である。
坊さんになるための断食修行、山で迷子になり3日間さまよい歩く、 3日間水だけで絶食を試みるなどが考えられるが、私は、まだ経験していない。 実は、それらを試す勇気がないというのが本音である。
 せいぜい試したのは、3泊4日のテント縦走登山ぐらいである。 それでも、軽量化を理由に食料を減らせば、一日歩き続ける運動が加わるので、 3日目ぐらいから空腹感がやってくる。 腹を空かせて、下山したときの食事は、スーパーで買った安売りの弁当さえご馳走である。
また、街道沿いの蕎麦屋などは、どれも絶品だし、家に帰ってからの女房の食事も、うまさが増す。
一時的な空腹は、食べ物のありがたさと美味さを再認識させてくれる。 ただ、食べ物がまったく無い状態が続く飢餓を経験したことがないので、これはのん気な感想に過ぎない。 いつか3日間の絶食を試したいと思う。

 最後に、美味い食事と不味い食事は、いつの時代にもある。 バブル崩壊後「グルメ」という言葉が溢れているが、美味しさには個人差があり、 個人の味覚も年齢や経験と共に変化して、本当においしい料理には、なかなか出会えない。 私個人の経験から、例を3つ。

  ○レトルトパックの鰻を山に持込み、ご飯を炊いて、その上に乗せ、暮れ行く山々を眺めながら食べる。 歩き疲れた体に鰻の柔らかい身が、甘いタレ、ご飯と一緒に胃袋に流れ込み、力がみなぎり絶品である。
  ○山小屋では、沢の水を使っている山小屋の食事がいい。 山の土と岩石から沁み出したうまい水は、美味い食事になる。 特に、ご飯と味噌汁の味に差が出るようだ。
  ○手前味噌ではあるが、女房の作る食事もなかなかである。
 遠い昔、女房と結婚する前、大阪育ちの彼女が作った弁当を、初めて食べたときのあの驚き。 関東育ちの私は、濃い味で辛いもの好き。 関西育ちの彼女は、薄味で甘いもの好き。 一目見て、一口味わい、これが弁当か? 振られちゃ困るので、顔で笑って、泣く泣く食べた。 興味津々の友人に、彼女の弁当の味を聞かれて、「お菓子みたいな弁当を作る子」と答えた。 歳月は流れ30年、2万回近く彼女の料理を食べ続けた結果、味の好みが変わったのである。 なんと、甘いお菓子や女房の作るケーキも好んで食べるようになってしまった。

 つまり、食べ続けると美味しくなることもある。 結局、人と食材、雰囲気、食べる人の状態などが料理の味を決めるのだろう。
新鮮な自然の食材を用意し、適切な技で料理人が一生懸命作ったものは、滋味と心が宿っているのだ。 食欲がないくらい疲れているか、よほど落ち込んでいない限り、うまくないはずはない。
だから、仙人温泉小屋で主人が作る「蕗の煮物」に感激する人がいるのも、そんな訳でしょうね。

注.「幻の山菜、シオデ」は東北地方では、山菜の王様とも言われる、貴重で美味しい山菜です。字は「牛尾出」と書く。わらびの倍から3倍の値段で取引されますが、登山者が見つけるのは不可能かもしれない。

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