「小屋開けの記」

黒部の仙人・高橋重夫

今年は去年より少し早く梅雨入りはしたが、しとしと、ジメジメの長雨にはなっていない。
箱根で仕事をしていた時に雹が降って驚いたが、東京の三鷹市近辺に降った雹は10センチも積もって農作物が多大な被害を受けた。道路の 除雹は夜まで時間がかる始末だった。
埼玉県の和光市近辺ではアンダーパスの道路が冠水して車が立ち往生したり、学校の校庭が沼のようになった。この頃の雨は局地的に想定 外の大雨になる。
天気の長期予報ではエルニーニョ現象で冷夏になるようだったが、直近の予報では去年並みの夏になりそうと修正していた。が、梅雨らし い雨の日が少ないので、末期には想像を越える大雨が降るかも知れない。

 六月に2回小屋の様子を見に行った。積雪量は例年通りだが、雪解けは速い。6月に夏のような暑い日が多かったからだ。毎年、真夏の訪れ が早まっているような気がしてならない。
今年は7月10日に小屋の荷物を空輸する予定になっている。ヘリコプターの荷揚げなので雨や曇りの日は中止になる。7月初旬は梅雨の 最盛期なので、予定日にヘリが飛ぶことはまれにしかない。雨の日が3日、4日と続いて荷揚げがずれ込むと流石に憂鬱になる。
キャベツ、 玉ねぎ、大根、ニンジン、ゴボウ、キュウリなどの野菜は傷んで半分も使い物にならなくなるのだ。4日ぐらいならまだしもで、9日間待たさ れた時は山小屋の経営を放棄しようと真剣に考えた。
 小屋の経営を手がけた当初は荷受けを一人でこなしていた。ヘリが仙人温泉小屋に飛んで来るのは11時から13時の頃。15時を過ぎると霧 が湧いて来るので、3トンの荷物を受け取り切れない日もある。
一回のフライトで運べる荷物が1トン程度なので、三回に分けてヘリは荷物を運んで来る。小屋を修理する材木と発電機の燃料で半分。それ はヘリポートに野積みして置いても支障はないが、残りの半分は食材なので、どうしても小屋の中に運び入れなければならない。
 一人で1トン半の荷物を背負子で運ぶのが去年から負担になってきている。50代前半の頃は体力、気力共充実していたのでさほど苦にならな かったのだが、がですよ。60歳を3個も過ぎると40キロの荷物が担げないのですよ。24本入りのビールの箱が8キロ。それを5箱担いで運べた 頃はもう、遠い夢の日になってしまいました。 63歳の現在は30キロの米袋を担ぐのがやっとの始末。でも、良くしたもので年寄りが苦労をしていると、気の毒に思ってくれる人が出現す るのですね。大阪、群馬、名古屋、東京から頼もしい助っ人が駆けつけてきてくれるのですよ。
 缶ビールだけでも40箱、960本荷揚げする。宿泊客と立ち寄り客が飲むビールは360本くらい。残りはスタッフが飲む。と言っても殆どは経営者の高橋仙人が飲みます。小屋暮らしは概ね3ヶ月間、まあまあ90日ですから、1日当たり6本は飲むのであります。
 よく言われます。 ちょっと飲みすぎですねぇ〜と。掛かり付けの医者にも、少しアルコールを控えないと長生きができませんよ、と定期検診の度に言われます 。 40本吸っていたタバコはぴたりと止めました。けれどもビールだけは止められません。暑い日に大汗をかいて仕事をした時のビール。あの 喉越しはなんとも言えない良い感じなのです。
義理の兄が亡くなる3日前に連れ合いから、少しビールでも飲むかい?と言われた時の、あのにっこりとした顔が忘れられません。酒飲み は、死ぬ間際まで酒が好きなのだとだ、と痛切に感じました。

 小屋を開けてからヘリの荷物が来るまでは、去年の食材で凌がなければならない。
そのために最低限の食材を小屋にストックして置くのだ が、小屋を閉めると登山者の往来が途切れるので、月の輪熊が小屋の周りを徘徊する。そして人の気配が全くしなくなると小屋の壁を鋭い爪 で引っ掻いて穴を開け、小屋うちに侵入して翌年のための食材をすべて、本当にすべて食べつくすのです。米は舐めるように食べて一粒も残 しません。ビールも100本でも200本でも飲みます。日本酒は特にお気に入りのようです。容器の紙バックまでしゃぶり尽くします。熊に入ら れた小屋の惨状は4回見ました。呆然として、希望はすべて失われて、山で暮らすことに怖じ気づくことがあります。
小屋を維持する事は、 結構大変なのですよ。一人では出来ることに限界が有るのを、この年になって知るのでした。
人は一人では生きられません。助け合って生き るのが、人の実状なのですね。 今年はアクシデントがあって、温泉が不通です。
6日に小屋入りしても、一人では、温泉の工事に3日かかります。その間は沸かし湯で身体 を拭くだけで辛抱をするのです。ちょっとね、背中や頭髪が痒くてたまらないのですが……。
温泉が開通すると安心できる。今年もまた登山者の皆さんに喜んで貰えると思うと、ブシュッ。ついつい缶ビールを開けてしまうのです。
登山道の草刈り、梅雨の晴れ間の布団干し、宿泊棟の建て増し。一人ではこなしきれない仕事が山ほど有るのです。
酔い潰れてはいられませ ん。ほどほどにしなければ、3ヶ月、休日無しの生活に耐えられないのです。でもね、明るい性格の宿泊客が、オヤジさん一緒に飲みません か?と誘ってくれると高橋仙人はつい、大酒を飲んでしまうのです。
宿泊客のなかに若い女性が混じっていたりすると、正体不明になるまで 飲んじゃうんだね。

 7月4日の深夜。雨が屋根に音を立てて降っている。明日からの荷造りが思い遣られるけれど、頑張るしかない。倒れるまで頑張る、と小屋 暮らし初年度に立てた誓いを今年も守り通します。


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