「嗚呼、ショコラモンブラン」

仙人温泉小屋スタッフ田中 正祐紀

 あれは仙人岩屋付近で17年前の白骨死体が見つかったというニュースが流れた2012年だった。八月の暑い日、ひと仕事終えて小屋の食堂で休んでいるときに、高橋仙人が唐突に「田中さん。ケーキ食べる」と言った。一瞬とまどいながらも、取り乱したりせずに、いたって平静に、「はい。食べます」と答えた。出てきたのは、解凍された丸ごと1個のショコラモンブラン。なんで小屋にこんなもんがあるのかという疑問と、あの酒好きの、絶対にケーキなど小屋に置かないと思っていた仙人が、これを勧める不自然さから、心はモンブランの渦巻きのように乱れてしまった。たぶん、それを隠すために、微笑みを浮かべていたと思う。仙人は何気なく、その様子を観察しているようだった。

 スプーンですくって、一口食べると、禁断の木の実を食べてしまったような罪悪感と、極めて甘く、滑らかな舌触りで、なんともいえない至福の時間が訪れた。

 思えば遠い昔、女房と結婚する前、彼女が作った弁当を初めて食べたときのあの驚き。関東育ちの私は、濃い味で辛いもの好き。関西育ちの彼女は、薄味で甘いもの好き。一目見て、一口味わい、これが弁当か?まるでお菓子のようだ。振られちゃ困るので、顔で笑って、泣く泣く食べた。歳月は流れて30年。やっぱり女房の食事が一番だと言うようになり、おやつの時間には、甘いお菓子や女房の作るケーキも好んで食べるようになってしまった。

 こんな風に変えられてしまった私でも、登山でケーキはないだろうと考えていた。それが証拠に数年前、あの巨大な白馬山荘で、ケーキセットなるメニューを見たときに嫌悪感が走った。山に都会の喫茶店を持ち込んでどうするんだ。商売根性丸出しではないか、と軽蔑したのである。だから、都会から最も遠い仙人温泉小屋で、ケーキなどあろうはずはないのである。熊の毛皮を貼り、赤マムシの刺身と手打ち蕎麦を裏メニューとし、一杯飲み屋の提灯がぶら下がっている所で、酒をこよなく愛する仙人が、自分が食べないケーキをどうして置いたのか。一口ずつ食べながら、考える。小屋のポリシーに反しないか?恐らく、今年から冷凍庫が寄贈されたのがきっかけだろう。そうだ、酒の次に仙人がこよなく愛するのは女性だ。たぶん、女性登山者が喜ぶ顔が見たい、その一心で、わざわざヘリでこれを運んだのだ。と推理を進めたところで、大きなショコラを食べ終わった。

 私が満足した顔をしていると、仙人が来て、ケーキについてあれこれ話してくれた。ピンポン!やはり、気が向いたときに女性登山者にサービスするための隠し玉だった。見てビックリ、食べて感激する姿が、うれしいそうである。それにしても、なんたるミスマッチと下心(失礼)。でも、それが仙人のいいところであり、ユーモアでもある。

 こうなったら、登山では硬派の私も、一気に軟派になる。ご存知のように甘いケーキと苦いコーヒーの組合せは絶品だ。特に小屋の水は天下一品の美味しい水である。この水で淹れたコーヒーは、歩き疲れた登山者に、至福の味とくつろぎの時間を提供してくれるだろう。これなら酒を飲まない男性登山者にも喜ばれるのではないか、などと考える。気が付けば、あれほど軽蔑していたコーヒーセットを、自分がこの小屋でやりたいと思っている。なんとも情けない。でも、これも人生。時には風に吹かれて、好みやポリシーが変わるのもありかもしれない。

 あれから3年目に突入したショコラモンブランは、先日も小屋の冷凍庫に並んでいた。 売り物ではない。仙人の気まぐれで提供される、とっておきの品である。それを女房が嬉しそうに食べている姿を横目で見ていた。
嗚呼、ショコラモンブラン!こんな日が来るんですね。


Copyright(c)Sennin-OnsengoyaAllrightReserved.

戻る