「2002本州横断登山上」
(高橋さんとの出会い)」

仙人温泉小屋スタッフ:大西達矢

仙人こと高橋さんと出会ってから今年(2016)7月で丁度14年を迎えた。
スタッフの中では唯一の関西出身者でもある。会社勤めをしている自分は週末のみのお手伝いで、 何時も金曜日の夜から車で大阪を出発して土曜の朝早くに仙人温泉小屋へ向かう。
お手伝いを本格的に始めた2008年からシーズン中の6月〜10月まで8〜10回は毎年大阪から往復している。
これまで大阪から仙人温泉小屋まで往復した回数は約70回、雲切新道を使わせて貰った回数は数えたら60回丁度 だった。
2007年から開通した雲切新道は阿曽原温泉小屋が切り開いて下さった、旧道と比べて極めて安全な登山道だ。 以前使っていた旧道よりも遠回りになり2〜3時間余計に掛かってしまう。標高差約800mもあり鎖場に梯子が続く急登のとんでもない登山道に見えるが、旧道をよく知っている者にとっては遥かに安全になった。
切り開いてくださった阿曽原温泉小屋には非常に感謝している。 これからも雲切新道を100回200回と大事に使わさせて貰いたい。
 さて、私は14年前の2002年7月23日、仙人温泉小屋へ宿泊者として訪れ高橋さんと初めて出会った。
切欠となる出来事は今から21年も遡る。1995年の某山系雑誌の記事だった。 青梅市の小学校の先生が1994年の夏休みを利用した41日間、日本海側海抜0mの新潟県親不知から 太平洋側海抜0m静岡県田子の浦海岸まで交通機関を一切利用せずに国内3000m峰の山々21座を全て徒歩のみで本州を横断すると言う記事であった。当時は山の魅力に取り憑かれ登山を始めたばかりの頃であり、交通機関を一切利用しないで日本の一番高い所を自分の足のみで縦走すると言うことに男のロマンを感じた。
1994年夏に同じコースの北アルプス読売新道を小学校教諭と1週間のずれで自分も歩いていたのだった。 記事の小学校教諭にもしかすると会えたかも知れないと思うと非常に残念であった。 色々と話を聞いて見たかった。会社員の身で40日間も休みを取る事などは所詮無理な話 その時は学校の先生を羨ましいとは思ったが、自分がやると言う事などは夢にも考えたことは無かった。
人生の転機が訪れたのは、その記事を読んでから6年後の冬(2001年12月)のことであった。 43歳になった年の年末に長年勤めた外資会社の事務所の閉鎖が決まり、突然首切りを宣告されたのである。 当時、仕事好きだった自分は無我夢中に土日も返上することもざらにあった。何が何でもこの会社で定年を迎えるまで頑張りたいと思っていた矢先であったのだ。
自分自身にその災厄がまさか降りかかるとは夢にも思わなかったのである。 茫然自失って言うのは、このような時を意味するのであろう ショックは大きかったが再就職活動に専念するよりも気分転換に好きなことに没頭するのも良いだろうと思うようになった。その時6年前(当時)に読んだ小学校教諭の記事を引っ張り出し 夢にも思わなかった男のロマンを実現可能にするチャンスではないかと言うことに気が付いた。
今思うと、次の年(2002年)に仙人温泉小屋を始めた高橋さんとの出会いが、その瞬間にセットされたのだろうと思う。この時が正に人生の分水嶺、転換期だったに違いない、夢にも思わなかった本州を横断する登山をチャレンジできるんだと思うと行動は早かった。年が明けた次の年(2002年)からは図書館で登山道の資料集めとフィットネスクラブで筋力を鍛え、堤防でランニングなどに勤しんだ。毎日地図を眺めてはコースのプランを練った。
モデルとなった小学校教諭の歩かれたコースとは若干違うが3000m峰の21座はやはり外せない、3000m峰の無い 中央アルプスをコースに入れた。水平距離約600kmのコースである。 スタートの予定時期は梅雨明け後の7月初め頃と設定した。北アルプス〜乗鞍岳〜御嶽山〜中央アルプス〜南アルプス〜富士山、これまで横断となるこのコースは断片的ではあるが歩いているので、富士山以外は地形を含めた景色など、 ある程度イメージ出来た。
 その年の5月からは紀伊半島の大峰山、八経が岳、大台ケ原、を中心に屋久島など日頃登れなかった山々を歩いて下半身を鍛えた。テント泊の長期縦走となるとリュックの重さは30kgは越える。 リュックを担いでの懸垂などで上半身の筋肉も鍛えた。この時のトレーニングが、その後の仙人温泉小屋のボッカとして十分に活用されているのだと思う。



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